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ランニングアドバイザーウルトラトレイルランナー

1980年に、ここ南魚沼市六日町に 接骨院の長男として生まれました。 六日町小学校、六日町中学校、 八海高校普通科を経て 接骨院の後継ぎとなるべく石川県金沢市にある 『北信越柔整専門学校』の門を叩く。 3年間の就学過程を終え無事、 国家資格である『柔道整復師』の免許を取得。 その後、就職のため上京。 杉並区の富士見丘整骨院にて4年半修行する。 平成18年の12月より、 実家である神保接骨院に勤務。 平成23年、ランニングをはじめる。 平成27年1月、院長に就任。 

南魚沼

2015.9.16

マスオさんとカツオが坂戸山でケンカ!?その結果、土下座をしたのは…

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前回は山城としての坂戸山を紹介させていただきましたが…

今回は坂戸山(坂戸山城)の成り立ちについて…。

時は南北朝時代に遡ります。

※南北朝時代とは鎌倉時代後期~室町時代初期(1336~1392)皇室が南北に分裂した時代。

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もちろん坂戸山自体はその遥か昔から存在していたわけですが、山城として築いたのは南北朝時代の初期、越後を治めていた新田氏の一族が最初のようです。
その後、上杉氏が新田氏を追い払い上杉氏が越後の守護(司令官)になります。

1352~1355年、上田の庄(旧南魚沼郡のあたり)にある坂戸城に配置されたのが上杉氏の家臣の長尾氏。
「上田長尾氏」と呼ばれ上田の庄を預かり関東平野を結ぶ陸上交通の抑えとして(上町に清水街道と三国街道の分岐点がありますよね)また魚野川を利用した河川交通の要所として坂戸山は重要な役割を担うことになります。

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1512年、室町時代に入りに長尾房長(景勝の祖父)が本格的に坂戸城の築城にあたります。

1510年に「長森原の戦い」が現在の城内地域・長森のあたりで起こり内乱があったこともひとつの要因ではないかと言われています。

関東管領(幕府の重役)・上杉顕定が謙信の父である長尾為景にこの地で討たれました。
下原新田に管領塚史跡公園として残っています。
六日町方面から向かってR291沿いの右手ですね。

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長森原の戦いにおいて『下剋上』を成した上田長尾氏は越後の中でも一定の独立性を保ちます。
ここでポイントなのが長尾氏は、そのルーツにより3氏に分かれます。
この辺がなかなか複雑なところです。
謙信のルーツでもある府内長尾氏と上田長尾氏は同じ一族ではあるが大変仲が悪かったようです。
謙信の姉(仙桃院)が上田長尾氏に嫁いだのも政略的な理由からで府内長尾氏が上田長尾氏を警戒してのことでした。

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この謙信の姉と上田長尾氏当主・長尾政景の間に生まれたのが景勝(1555年)となります。

景勝が生まれたのも何を隠そう、我らが坂戸城なのでございます。
ということで景勝は謙信の実の甥っ子になるわけです。
しかし、この政景と謙信は仲が悪くケンカが絶えません。
サザエさんで言うとマスオさんとカツオが争っている状態(笑)。
ゴタゴタが色々ありましたが、最後には業を煮やした謙信が坂戸城総攻撃を通告すると政景は抵抗をやめ謙信に降伏します。
マスオさんが、カツオに土下座(笑)。

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最初にも述べましたが当時、坂戸城周辺は関東方面と越後を結ぶ交通の要所で、魚野川の水運による物資流通の拠点でもありました。
上田長尾氏は、その物資の拠点を押さえ、その財力と強兵で府内長尾氏と互角の力を持っていました。
要するに謙信も、いい意味でも悪い意味でも一目を置いていたのでしょう。

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当時、坂戸山がいかに越後にとって重要なお城だったのか少しは伝わりましたでしょうか?

遥か昔の歴史に思いを馳せながら山頂からの景色を眺めるとき、また違った景色として味わえるのではないでしょうか?
またここで紹介したお話を一緒に登った家族や友人に伝えてあげてください。

「へぇ~~」って言われてちょっと得意げ。

PS そう言うのってステキやん。

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